キュレーションの時代
佐々木俊尚(ささきとしなお)
ちくま新書 2011.2.10

『キュレーション
無数の情報の海の中から、自分の価値観や世界観に基づいて情報を吸い上げ、そこに新たな意味を与え、そして多くの人と共有すること。』

p.242
『一次情報を発信することよりも、その情報が持つ意味、その情報が持つ可能性、その情報が持つ「あなただけにとっての価値」、そういうコンテキストを付与できる方が重要性が増してきているということなのです。情報爆発が進み、膨大な情報がわたしたちのまわりをアンビエントに取り囲むようになってきている中で、情報そのものと同じくらいに、そこから情報をフィルタリングするキュレーションの価値が高まってきている。』

多量な情報の海
どこまでの情報に意味があり、どこからの情報が意味を持たなくなるのか、その境目をセマンティックボーダーと呼ぶが、このボーダーを日々書き換えるのがキュレーターである。キュレーターは情報の海から意味のある情報を拾い上げることで、昨日までは意味のないアウトサイダーだった情報をインサイダーに変更する。これはすなわち、セマンティックボーダーがキュレーターにより日常的なゆらぎをつくられていることを意味する。そのゆらぎが情報の新しい解釈を生み、セレンディピティーやイノベーションの確率を高める根源となりうることを勘案すると、イノベーションを強く求められている現代の企業は、このキュレーションの考え方をきちんと理解して取り入れるべきである。現代の企業は概して一次情報の発信(オリジナリティ)を過剰に重視している。特にR&D部門になるとそれが顕著である。一次情報をいい意味で真似て新しいアイデアを提案することは、オリジナリティと同等以上に評価されてしかるべきである。ひょっとすると、オリジナリティを産み出すことを得意としている企業は、オリジナリティの価値を過剰に評価するがあまりに、一次情報に意味を持たせる過程に二の足を踏んで切るのではないか。もっといえば他研究者のオリジナルに手を加えることは最大の罪悪であると考えているのではないか。

多量な情報の海
現代は情報発信コストが大幅に低下したために、情報発信力の強弱は意味を持たなくなった。これまで情報発信力の強い企業やマスメディアにより一元的に同心円的に情報が発信されていたが、ソーシャルメディアの登場で多心円的な社会へ移行している。マスメディアが一元的に情報を発信していた時代は、商品には商品そのものの機能価値だけでなく、ブランド品がある種の社会的ステータスを持つことに代表されるような共同幻想としての社会的価値が付与されていた。そして商品そのものを消費するというより、その商品が持つ価値を消費する社会だった(価値消費)。しかし商品が一元的な社会的価値を持つことは不可能になった今日では、社会から自分のステータスを承認してもらうための消費がなくなってしまった。では私たちは社会と繋がるためにどのような消費をすればよいのか。あるいは消費は社会とのつながりとは無関係になってしまったのか。ここに答えを準備するのもやはりソーシャルメディアなのだろう。社会とつながること。周りの人たちに承認してもらうこと。自分が社会から認められる何事かをなしていること。現代に生きる私たちが求めているのは、明らかに他者との繋がりである。他者と繋がるために必要な消費の形を準備することが今企業に求められていることだろう。それを考えていない商品はコモディティとしか見られず、必要最小限の機能があれば価格の安いもののみが意味のあるものとなろう。

多量な情報の海
マスメディアによる一元的な情報発信の社会では存在が困難だった人々の繋がりが生まれている。多くの人は意味を感じないようなある特定の情報に価値を感じる人々の繋がりである。その人たちに情報を商品を紹介したい企業は、その人たちが生息するビオトープがどこにあるかを見極めて、適切な方法で情報をインプットしなければならない。適切な方法とは、もしかしたら企業が情報の供給者であるというスタンスを変えなければいけないのかもしれない。そしてビオトープはひとつの国の中で完結しているものだけではないかもしれない。同じ国に住んでいるが価値観の異なる人よりも、国は違うが価値観が同じ人の方が近くに感じる社会になってきている。だからビオトープはグローバル的存在になっている。企業が海外に打って出るときに、その国実情に自社のスタンスや商品を合わせようとする。しかし自社の価値観を進出している国によって変える企業よりも、価値観が一貫している企業の方が好感を得るのではないか。自国で一定の評価を得ている企業の価値観に共感する人々は、他の国でもかならず存在するのだから。

多量な情報の海
そこは、情報を発信するものと、情報を受信するものという縦の関係ではない。参加者はフラット。企業といえどもひとりのプレーヤーとして真摯な態度で、自分の言葉で語らなければならない。他の参加者からリスペクトされるのは企業とは限らない。というより企業は少ないのかもしれない。他の参加者から認められること。今企業が考えなければいけないのはこの点だろう。認められるには、明確な価値観を持ち、一貫した言動をすることだろう。最近になって企業ポリシーが急に話題になり始めたものこの時代の流れに対応しようとするものだろう。形式を重視しすぎて、多元的な解釈ができてしまう企業ポリシーは、むしろ企業の言動の一貫性を損ねるものになるだろう。泥臭くても曲がりようのないポリシーを自分の言葉で語る企業。そのポリシーを愚直なまでに実行する企業。今問われているのはそんな企業になることなのだろう。

2012.02.04記