日の丸山展望台から一面のサトウキビ畑を臨む。
島の周辺部が山、中央部がくぼ地になっているため、海が見えない。
島にいることを忘れてしまう風景である。

海軍棒プール付近から東海岸植物群落を望む。
おそらくここが島内で一番の絶景だろう。
しかし、島の周囲はすべて険しい岩浜であることが実感できる場所でもある。

 

 

2001年12月3~4日

那覇空港から39人乗プロペラ機で、あこがれの南大東島へたどりついた。
世界でも珍しいサンゴ礁で形成されたこの島は、日本列島とも大陸とも地続きになったことがない。そのため沖縄県ではあるが、名物?のハブはいない。ハブがいないために大変蛙が多いという情報を得ていたが、正に本当だった。ホテルで借りた自転車で島を回っているとき一番目に付いたのが路面に張り付く「平面蛙」。この島でマラソン大会を開けばおもしろいと思っていたが、ちょっと気になって走れないかも。

平成10年度村勢要覧によると、島全体の面積に占める畑の割合は60%。そしてそのほとんどがサトウキビだ。上の写真からもわかるように、島の南部にある「日の丸山展望台」から眺めると、一面サトウキビ畑。この時期サトウキビは私の身長より高いため、畑の真ん中を走っていると全く展望が利かず、迷子になってしまいそう。

この島は、周囲が山で中心部が平地。しかも多くの池が一番中心に存在しており、通常の島とは全く逆の地形となっている。見所は海軍棒プールからの絶景、町近くの瓢箪池、大東神社など盛りだくさん。沖縄観光の超穴場と言えるのでは。

大東諸島は、南西諸島や小笠原諸島からは独立した特殊な位置にある。沖縄本島からも400キロ離れており、もともと無人島だったが、八丈島生まれの「開拓王」玉置半右衛門が1900年1月23日に現在の西港へ上陸し、現在の基礎を築いている。去年(2000年)は開拓100周年にあたり、様々な行事が執り行われたとのことだが、この機会に編纂された「南大東島開拓百周年記念誌」を読むと、開拓当時の様子がわかり大変面白い。

実は、この島の開拓を志したのは玉置氏が7人目である。
1891年から、古賀辰四郎、島袋完衛、荻野芳蔵、重久善佐衛門、服部徹、広川勇之助の各氏がチャレンジしたが失敗している。その大きな理由は前述のように、この島がサンゴ礁で形成された「隆起環礁の島」だからだ。これは環状のサンゴ礁が数回にわたって隆起して形成された島のことで、特徴として海岸線が石灰岩から成る険しい岩浜になっており、船が容易に着岸できない。実際に現在でも那覇港から入港する船からの荷物の上げ下ろしは(人も含めて!)クレーンを使っているくらいだ。

ここでふたつの疑問が湧いてくる。
まず地理的にも、地形的にも困難が伴う大東諸島を、何故開拓しようと思ったのか?
玉置氏一人なら気まぐれ(失礼)で済ますこともできるが、彼を含めて7人もが決意しているのだ。明治の新政が軌道に乗った1900年前後。そういえば、北海道・歌志内方面の苛酷な開発もこの時期に行われている。この時期に日本で一体何が起きていたのか?

もうひとつは、八丈島と大東諸島とどんなつながりがあったのか?
八丈島出身の「開拓王」玉置氏がたまたま大東に着目しただけなのか、それとも大昔から八丈島には、大東諸島の情報が届いていたのか?
また、実感として南大東島と沖縄本島とのつながりはそれほど強くないと感じた。ただ単に地理的に沖縄県に所属しているだけで、文化的には全く別の次元で語らなければならないと思う。

今回の旅では、満足できる回答が得られなかった。
しかし、是非とも八丈島へ行かなければならない。そこに近代日本発祥の何かがあるはずだ。という思いが沸いてきた私である。