これ以前に真理の後ろ盾となっていたキリスト教の絶対性が疑われ始めた近代において、キリスト教に代わる「真理の後ろ盾」を探すことは切実な問題だった。キリスト教に代わるべく見出された各種の思想も、その本質(起源)はキリスト教の域を出ていなかった。ではキリスト教の本質とは何か、その起源に縛られない新しい価値観をどのようにつくったらよいのか。
自分のことを中心に考えること。力の強いものを良しとすること。本来人間が自然に考えるこの前提を逆転させたのがキリスト教である。自分のことより他者のことを考えることを良しとすること。貴族的な評価様式から僧侶的な評価様式に変えること。これがキリスト教の本質である。しかし、貧しいこと、悩んでいることの方が幸せであるという逆転は、強者に対してルサンチマンを持つ者しか考えつかないことであるが、この考え方がヨーロッパでは完全勝利してしまった。いったんこの考え方が定着すると、外部から強制されなくても、自分の内なる目が「強者は悪である」と監視するようになる。さらにキリスト教は、真理=絶対的に正しいものが存在するという「前提」をヨーロッパに植え付けた。
強いものを否定したり、利己的なものを悪とする「道徳」もキリスト教の変形といえるが、結局、人間は真面目に真理を探し求め続け、ついに真理などは存在しないという結論(ニヒリズム)に辿りついてしまった。ニヒリズムという自暴自棄から脱却するにはどうしたらよいか。ニヒリズムを招いたキリスト教的な論理とは根源的に違う原理を見つけるにはどうしたらよいのか。
新しい道徳をつくるにあたり、ニーチェはルサンチマンが否定した「強者と弱者が存在すること」を事実として認めるところから始めた。今私たちが生きている世界とは別に理想的な世界などはない。人間は決して平等ではない。より高いもの、より強いものになることがよいことである。そのことをまず認めよう。そして、今を否定して落胆するのではなく、何度生まれ変わってもそうしたいと思えるような生き方をすること。それが永遠回帰である。永遠回帰は超越的なものを否定し、生をあるがままに肯定するもの。今生きている世界を否定するよりもはるかに前向きな生き方といえる。世界を滅びてもよいものと思うか、課題はたくさんあるが、この世界を持続させなければいけないと思うか。日本人には当たり前に思える後者の考え方が、現代のサステナブルという新価値としてとらえられているのは、近代の欧米文明が世界をどうとらえていたのか、そしてその捉え方が日本文化といかに異なっていたかを示すものと言えよう。
再び正しい認識などはないという点に立ち戻る。認識は観察する側とされる側との関係で決まるものであり、初めから普遍の客体が存在するのではない。そしてどう認識されるかは観察する側が決めるものであり、する側が持っている「価値評価する力」で決まるもの。したがって世界は観察する側(人間)の価値評価力により生成したものといえる。では観察する側(人間)の価値評価力の源泉は何か。それは生命体が自己の保存と生長を目指す力であるとニーチェは言う。より強くなろうとする力が認識の源泉であるとしたら、より強くなることを悪としたキリスト教や近代思想とは180度違った見方をしていることになり、キリスト教や近代思想で認識を語ろうとすることがナンセンスだと言っていることにもなる。保存・生長しようとする力は通常意識されていないものであり、道徳や正義等といった意識された概念とは大きく異なる。価値の源泉は意識されない力である。逆に意識された力を価値の根拠とするとかならず間違いを生じる。近代は正にこの間違いを起こしている。
キリスト教や仏教が発生した時代や、また平安から中世日本にも見られるような現世を否定して真理を求めていた時代は終わり、物質的な豊かさに囲まれた時代に移り変わっている。グローバル経済の発展に伴い、どこの地域でも現世も結構いい世界じゃないかという気分が広がってきた。このように現世に幸せを求める人々が世界の主流になってくると、そもそも現世とは別の真理を求めることを基本とした論理では人々の幸せを実現できないのではないか。それが言い過ぎであれば、論理と現実がミスマッチを起こしているという言い方でもよい。
極めて即物的な議論に代わるが、企業と生活者も上と同じ関係になっているのではないか。何か理想的な経営がどこかにありそれを追い求める企業と、今生きている世界の中に回答を求める生活者の間で大きなミスマッチが発生しているのではないか。企業の従業員も含めた生活者が幸せな生活を送れるようにするには、真理を追い求めるような大仰なことではなく、もっと現実に近い泥臭い部分をほんの少しだけ変えることの方が有効なのではないか。
2011.02.12