2004年9月26日 北緯40°秋田内陸リゾートカップ 100キロチャレンジマラソン

米内沢から合川に向かう県道3号。私のウルトラの原点に再会できた。

秋田内陸線とランナー達。絶妙のタイミングで列車が来たのであわてて写真を撮ったがちょっと小さかった。

 

デジカメを持ちながらウルトラマラソンを走る。
そして、その土地、そのマラソンを代表すると思われる風景を、ランナーの眼でしか撮れない風景を撮影する。そんな走りをするようになってから、どうしても足りない想いがつきまとっていた。

そう。私にとってのウルトラの原点である「秋田の100km」の写真が無いことだ。
いつか撮りたい。そして撮るとしたらこの風景しかない。と考えていたのが、米内沢から合川へ向かう県道3号だ。この道は1994年、初めてのトライアスロンに挑戦しようと、不安を抱えながらひとり愛車で会場へ向かった道である。7月下旬のその道は青々と広がり、「まあ、何とかなるだろう」と不思議な安心感を与えてくれた道だった。

そして、そのトライアスロンが開催された合川の町に貼られていた1枚のポスター。それが「秋田の100km」のポスターだった。そのときは、そんなとんでもないレースには参加することはないだろうと信じていたが、わずか2年後の1996年に記念すべき初100kmを秋田の地で向かえてしまった。このときも果たして完走できるのか、大いに不安だったが、85kmを過ぎ、ああ、これで完走できるのだ、と再び不思議な安心感を与えてくれたのもこの道だった。
いつかこの道の写真を撮りたい。そんないつかが、やってきた。

2004年。この3月に急に腰の痛みに襲われた。
歩くこともままならない状態の中、もう二度と走れないかもしれない、との不安が頭をよぎった。まあ、富士登山競走を完走したり、100kmマラソンも完走できた。日本全国47都道府県制覇は完成できなかったけれど、まずまず人に自慢できるランニングライフだった。ただの一点を除けば後悔は無かった。

その一点である、秋田の100kmのあの道に再度挑戦できるチャンスを、ウルトラの神さまは与えてくれた。痛めた腰は関節や神経に異常は無く、筋肉の痛みがとれれば走ることができるとのこと。春に予定していた萩往還250kmやサロマ湖100kmは断念せざるを得なかったけど、秋に向けて走りこみを再開。100kmの復帰戦は迷わず「秋田の100km」に決めた。

しかし、30km程度なら問題なかった腰の痛みは、果たして100kmもってくれるのだろうか?
ゆっくりペースのウルトラに慣れきった体は、13時間の制限をクリアできるのだろうか?

4年ぶり、5回目となった「秋田の100km」はこれまでとは全く違っていた。
雨が降らなかった。秋田では気にした記憶が無い暑さとの闘いになった。

13時間の制限を意識し過ぎてか、あるいは日中暑くなるとの予想から涼しいうちに距離を稼ごうとかんがえすぎたためか、70km通過タイムはこれまでのどの100kmより速かった。靴までグショグショになるほど水を浴び、吐き気を押さえながら給水を多く摂りながら走り続けたが、あの道にさしかかったときは、全く苦しい走りになっていた。いつもは安心感を与えてくれるあの道は、今日に限って厳しい表情を見せていた。どんどん遅くなるラップタイムに加えて、90kmを過ぎたあたりから腰が、というよりは背筋がどんよりと重くなってきた。そういえば腰を痛めてから半年間、腹筋・背筋に楽をさせすぎていた。重い体を引きずりながら、鷹巣にフィニッシュ。暗くなり始めても雨は一滴もふらなかった。

厳しかったあの道はしかし、楽に走りきれたら勘違いしてしまったであろうところの「ウルトラの奥深さ」を教えてくれた。楽しいだけで終わってしまったらウルトラではない。

人に自慢できるランニングライフを語るのはまだまだ早すぎる。
これからも少しずつでも前に進んでいこう。
ウルトラの原点であるこの道は、またひとつ私を変えてくれた。

追伸 2005年 秋田の100km
懲りずに今年も参加してしまった。
去年とは一転して、「恵みの雨」が降り続く中スタート。

大覚野峠を越えた頃ようやく雨は上がったが、聞くところによると峠の北はもともと雨が降っていなかったそうだ。やはり私は雨の中走る方が合っているようで、結構快適な走りが続き、初100km時にマークしたベストタイムを9年ぶりに更新することができた。

2006年の富士登山競走と大田原マラソンに向けて、徐々にスピード練習を組み込んでいた成果が早くも出たと前向きに解釈しつつ、あと4回、クリスタルランナーを目指して走り続けよう!
かな、と思い始めている今日この頃。。