崎戸町歴史民俗資料館の近くにある炭鉱従事者住居跡
付近に公園を造っていることろだが、このミスマッチが何とも美しい。
2002年5月2日
長崎県の佐世保港から西海沿岸商船に乗船して大島へ渡った。
「軍艦島」を代表として、長崎県沖には多くの元炭鉱で栄えた島が点在している。その島のひとつを是非見てみたいという思いが以前からあった。今回、5月4日に萩往還に出走すること、5月1日にANAの超割チケットが出回っていることなどから、山口からはちょっと遠いけど、思い切って元炭鉱の街を覗いて見ることにした。
多くの島から大島町、崎戸町を選んだきっかけは、岩波現代文庫の「日本列島を往く(2)地下王国の輝き (鎌田慧 著)」を読んだことだ。その本には佐渡金山を始め、是非行ってみたくなる街が満載されているが、そのひとつが大島町、崎戸町だった。
大島と崎戸は1本の橋でつながった双子の島で、いずれも炭鉱として栄え、閉山と共に次世代の産業を探索している街だ。大島に上陸した私はまずバスで崎戸へ渡った。「福浦橋」というバス停で下車し、歴史民俗資料館に入館したが、これがまたすばらしかった。無人の館内にパネルとビデオがあるだけだが、崎戸がどんな街なのかがすべて把握できるところだ。
1630~1861年は捕鯨で栄え、1910~1968年は炭鉱の街として栄えた。昭和6年には全国の炭鉱のうち8番目の出炭量だったと記録されている。また、最盛期は8000人の労働者を抱え、住居、福利厚生施設などであふれる、活気ある街だったとのこと。
結果として、閉山後に造船所を誘致した大島は普通の街というレベルだったが、崎戸は鎌田氏も指摘しているように「ふたつの島を結ぶ245メートルの鉄橋を渡ってみると、その荒廃は眼を覆うべくもなかった。・・・道の両側に建ち並んでいるコンクリート造りの社宅の窓は、ガラスが破れて虚ろな暗がりをみせ、足元には背の高い雑草が伸び放題だった。」という状況。
帰りのバスを待つ間、資料館の近くをふらふらと歩いていると、偶然写真の建物に遭遇した。まさに鎌田氏の指摘どおり。これほど「歴史」を目の当たりにさせてくれる風景に始めて出合った。
後日談になるが、帰宅後イーストプレス社発行「廃墟の歩き方 探索編 (監修 栗原亨氏)」という本を発見した。まさに「廃墟」の写真を満載した本であるが、わが崎戸も掲載されていた。「廃墟」マニアにとっては超有名なスポットだったようである。