「秋田の100キロ」と鉱山王国

 正式名は「北緯40°秋田内陸リゾートカップ 100キロチャレンジマラソン」と実に長く、今もパンフレットを引っ張り出してレース名を確認したところだ。しかし、こんなに考えて名前をつけても、ウルトラファンの間では単に「秋田」で済ませる人が圧倒的に多いのでちょっと気の毒だ。

このレースは秋田県JR角館駅近くの「角館広域交流センター」をスタートし、秋田内陸縦貫鉄道に沿って一路北上し、途中の大覚野峠越えを経て、JR鷹巣駅近くの「鷹巣阿仁広域交流センター」がゴールのワンウェイコースである。

 「秋田内陸縦貫鉄道」の営業距離を時刻表で調べると94.2kmである。途中大覚野峠を含めて、何回か鉄道から離れた迂回コースを取れば、ちょうど100kmのコースが出来上がりだ。しかしこれは偶然ではない。以前、この鉄道は大覚野峠を境に南路線と北路線とに別れていたが、峠の下にトンネルを掘り、全線がつながったのが1989年。この開通を記念して何かイベントを行おうと考えた末に誕生したのが「秋田の100km」だ。

 そう書いてしまうと簡単に思えるが、その当時行われていた100kmマラソンは数少ない。ウルトラランナーのバイブル「決定版!!100km・ウルトラマラソン(夜久弘著)」によると、鶴岡(山形県)とサロマ湖(北海道)の2レースで、同じ1989年5月から始まった萩往還(山口県)は、まだ70kmが最長距離だった。もちろん当時は今ほどウルトラマラソンに対する関心は少なく、第1回大会の参加者は100km、50km併せて68名。完走者は39名だった。

 私がこのレースに参加したのは(現時点で)96、97、98および2000年の4回。その中で98年はちょうど10回の記念大会にあたっていた。その当時、ランナーの間では「10回を機に、大会がなくなる」との噂が駆け巡っていた。どのような経緯があったかは不明だが、結果として、10回までは地元ボランティアにより運営されていたこの大会は、主催が秋田内陸沿線協議会に引き継がれて現在も開催されている。もはやウルトラランナーにとって欠かすことのできない大会にまで成長した「秋田の100km」。いつまでも続いて欲しい大会である。そういえば10回大会を記念して本が発刊されていた。このときは、つい買いそびれてしまったのだが、何とか入手できないものだろうか?

1996年。この大会が私の初100kmになったのだが、なぜこのレースを初100kmに選んだのか。話は2年前の1994年に遡る。
当時マラソンを初めて5年ほど経っており、ちょうど自己新を狙って走る緊張感を楽しめる時期にあったが、その一方でただ走るだけでは飽きたらず、「何か面白いレースはないか」と考えていた時期だった。そんなときマラソン仲間から「面白いトライアスロンがある」との誘いを受けて、無謀にも参加したのが1994年7月に開催された「北欧の杜 アドベンチャートライアスロン」だった。

実は社会人になるまでまともに泳げず、また自転車も真っ直ぐならよいが、細かな動きには大いに難があり、まともなのはランだけという状況。今考えれば、よくこんな状況でトライアスロンに参加したものだ。自転車としてロードレーサーは持っていたが、この大会はマウンテンバイク必須のオフロードが設定されている。しかたなく近所の自転車屋で買いたてのマウンテンバイクは、レース当日まだタイヤに「トゲ」がはえている状態だった。

大体、レース会場となる「秋田県の合川町」はどこにあるのか?
トライアスロンはマウンテンバイクを運ばなければならない。愛車で行くために全国ロードマップを開いて位置を確認して驚いた。降りるインターチェンジも「十和田」が最寄りだ。十和田湖といえばほとんど青森県ではないか。

 日曜日のレースに向けて金曜日の夕方から車で一人出発した私は、途中サービスエリアで仮眠を取りながら何とかたどりついたのが「秋田内陸縦貫鉄道」の合川駅前だった。電話ボックスから今日の宿がこの駅のすぐ近くにあることを確認し、さてとりあえず宿に行くかと伸びをしたとき一枚のモノクロポスターが目に入った。2ヵ月後に開催される「秋田の100km」のポスターだった。

 たった200名にも満たないトライアスリートのために、町を上げて歓迎してくれたトライアスロンは最高で、初めて出会った人たちが一体となって飲み明かした。そのとき、「9月にある100kmマラソンは、この宿の前の道を通る」ということを聞いたとき、何だか妙にそのマラソンに出てみたいという気持ちになった。これまで経験した中で最高に楽しかったトライアスロン。その延長線上に「秋田の100km」がある。そんな気持ちだった。

 突然だが、ここ北秋田は日本有数の鉱山国である。
秋田県南部と北部とを分ける森吉山の麓にある阿仁銅山、8世紀初頭に金山として開かれた尾去沢銅山そして十和田湖にほど近い小坂銅山などが有名である。そしてそのいずれもが、奥羽本線、羽州街道と米代川が並行している鷹巣盆地を経由して日本海に臨む能代港へ集められる。幹線道路、鉄道、河川が一箇所に集まっている土地は日本全国に存在するが、箱根を迂回する足柄の道、岐阜・滋賀県境の関が原、京都と大阪を結ぶ山崎など、古代から交通の要所として発達してきた地域ばかりである。

もちろん米代川沿いのこの地域も例外ではない。その中でもアドベンチャートライアスロンでスイム(というより川下り)の会場となった阿仁川、手つかずの自然が残る白神山地から流れ出る藤琴川が主流米代川と合流する地点がきみまち阪で有名な二ツ井の町である。荷揚げ場と呼ばれたこの地域は、その名のとおり銅や木材が集積された場所であるが、川に岩山が迫っていることもあり、羽州街道最大の難所ともいわれた場所でもある。

二ツ井は毎年10月中旬に「きみまちマラソン(ハーフ)」が開催される町でもある。「秋田の100km」に参加しなかった1999年は、実はこのハーフマラソンに参加した年だ。蛇行する米代川沿いに走るそのコースは、緑の川面を見ながらのすばらしい景色だ。しかし、それまで7月下旬と9月下旬の北秋田しか知らなかった私にとって、10月中旬の寒さは結構身にしみた。実際このレース中には雪もぱらついてきた。長袖シャツを選択したのは大正解だった、と思いながらのゴール。その後近くの温泉までマイクロバスで送ってくれた。しかも帰りの電車時間に合わせて迎えに来てくれるなど、まさに至れり尽せり。アドベンチャートライアスロンといい、「秋田の100km」といい、この北秋田には何度でも脚を運びたくなる温かさがある。

翌95年の100kmには申し込むタイミングが遅くなり、定員オーバーで走れなかった。そして96年。早々に申し込みを済ませた私は意気揚揚とトレーニングを開始したのだが、道を横断しようとしたとき中央分離帯の小さな段差に脚をとられて激しく足首をひねってしまった。ぱんぱんに腫上がった左足首を眺めながら、今年も秋田は走れないのか、とため息をついたのが6月下旬。8月、何とか走れるようになったとたんに、今度は弱っていた左脚ふくらはぎを痛めてしまった。レースまで1ヶ月ちょっと。これで本格的にだめかな。と思ったものの、レース前日とりあえず現地まで行ってみようと東北新幹線に揺られていた。この年は秋田新幹線が工事中で、盛岡から角館までは代行バスが運行していた。盛岡駅でバスを待ちながら、そういえば宿も取っていなかったことを思い出して、大会パンフレットを見ながらレース前日の宿を確保。レース後の宿は合川駅前のあの宿にしようと決めていた。

角館広域交流センターで受付。そして前夜祭。その後会場まで迎えに来てくれたバスに分乗して本日の宿に向かう。入浴、食事。そして同室の先輩ウルトラランナーから「秋田100kmの心得」のレクチャー(?)を受ける。このときが私の初ウルトラだったのでわからなかったが、朝早いウルトラの楽しみは実にこの瞬間にもある。同室に以前この大会に参加したことのある人がいると、給水所の様子、コースの様子などを根掘り葉掘り聞き出す。聞かれるほうもまんざらではなく、自分の経験を惜しみなく伝授してくれる。

 そんな時間を過ごしていたとき、宿のスタッフが花火を打ち上げてくれた。ほんの10発程度の打ち上げ花火。しかも筒はひとつしかないので、ぽつんぽつんという打ち上げだった。派手な花火はいくらでも見たことがあるが、いまあがった花火は、今まで見た中で一番温かかった。

 「秋田の100km」は雨が降る。4回出場していると、初めに参加したときの天気がどうであったか正確に思い出せないのが残念だが、スタートはともかく途中ではやっぱり雨が降った。スタート直前で「お約束の雨が皆さんを歓迎しています。鷹巣で会いましょう!」のエールが今でも耳に残っているのは2000年の大会だった。

真っ暗な中のスタート。左ふくらはぎに不安を持ちながらのスタートは、実は1990年に初めてレースに参加したときから、ちょくちょくあることで、もう開き直りの境地だった。走り続けてだんだん体が軽くなってきたころ、薄っすらと夜が明けてくる。この時間帯がまた秋のウルトラの醍醐味である。目の前に山なみが広がる。この美しい風景は、しかしその山を越えて、遥か彼方まで走ることに今更ながら気がつくと、ちょっと気が遠くなる景色である。

35kmを過ぎると次第に勾配がきつくなる。いよいよ大覚野峠越えの始まりである。上り坂は苦しい。それがランナーの共通認識だと思っていた。初100kmからしばらくは走っていた私だが、あるときから歩いても同じだとわかった。疲労度と距離を考えると同じ、というだけではない。ウルトラマラソンとは何か。それをマラニックの延長と「定義」するならば、大好きなジョギングを一日中楽しめることだと「定義」するならば、途中で歩くことはかっこ悪いことでも何でもない。最近のウルトラでは上り坂になると、「ああ。歩ける。」と思ってしまう私だが、このときの大覚野峠はしっかり走った。登りきったところがちょうどフルマラソン地点。ここからがウルトラの世界だ。

ウルトラの世界が到来すると共に、長い長い下りが始まった。約10km続く下りは、このコースの中で最も厳しい区間だ。登りのときは気にならなかったが、この区間は回りに応援もいなくなるし、他のランナーもまばらになってくる。精神的にも苦しい。しかしトンネルを抜けると、急にまわりが明るくなる。中間の着替えポイントだ。

この中間点にほど近い比立内駅付近で、100kmスタートから6時間後に50kmの部がスタートする。100kmランナーがばらけてきたときに合流してくれるので、ひとりぼっちになることがなく、精神的に心強い。中間点からの5kmは一番走りやすいゆるやかな下りになっていることも手伝って、毎回快調に走れる。

100kmマラソンで一番リタイヤが多いのはどの地点か。統計はとったことはないが、おそらく70~80kmだろう。100kmに参加するのだから42kmより手前でリタイヤするわけにはいかない。それを過ぎると中間点。中間を過ぎると、そこから10~20kmは進める。しかしそこから先は「いつやめようか」というささやきとの闘いになる。特に体調が悪いときなどはつらい。初の100kmともなると「もうここまで行けば満足だ」という声にも脅かされる。

しかし私には目標があった。前述したように、アドベンチャートライアスロンの会場となった合川町、そしてそのとき宿泊した思い出の宿。その目の前が90km地点だ。とにかく合川までは走りたい。米内沢市役所を越えると左手に田園を見る長い直線に入る。変化の乏しいこの風景に、多くのランナーは滅入ってしまうだろうが、この道は私が合川町に初めて訪れた際に車で通った道である。こころのふるさと合川。この区間を走っているとき、何とも知れん懐かしさがこみ上げてきた。そして忘れられない合川駅の目の前を本当に通過すると残り10km。

 しかし、ウルトラマラソンは簡単には完走させてくれない。
「秋田の100km」は合川を過ぎたあたりから再び登りに転じる。95kmがピークとなるこの登りは、高低差こそ大したことはないものの、これまで振り絞ってきたエネルギーを枯渇させるかのごとく肉体面にダメージを与え、合川での応援を忘れてしまうほどの閑散とした雰囲気が精神面にダメージを与える。峠はトンネルになっている。そしてそのトンネルの真上は97年に開港した「大館能代空港(通称あきた北空港)」の滑走路になっている。初100kmマラソンの96年は、開港を来年に控えて、工事が急ピッチで進められていたときだった。しかし逆に言うと、空港が建設されるほどの土地である。まわりに民家はない。このことからも先の「閑散とした雰囲気」を感じ取ってもらえるだろう。ともかくトンネルを過ぎると、急な下り坂にかかる。その勢いで米代川にかかる橋を越えると、いよいよ鷹巣の町に入る。

 先も書いたように、この米代川は北秋田の銅を集めて流す重要な交通手段だ。これから向かう鷹巣の町をさらに上流に遡ると大館の町があり、さらに行くと小坂の町につく。初100kmのときからだいぶん時は下るが、2002年に大館から小坂まで走ったことがある。自分が4回も走ったこの北秋田を、地域として成り立たせていた産業の中心である小坂を一度見てみたいという気持ちからだった。

小坂は金、銀、銅を産する鉱山の町で、秋田県では秋田市につぐ第二の都市だった。ここで産出された鉱物は大館を経由して日本海・能代まで運ばれたが、その重要なルートとなったのが小坂と大館をつないでいた小坂鉄道である。今は客車としては廃線、貨物専用となった線であるが、往年の華やかさはいかばかりだったか。

この小坂鉄道と平行する道を雨の中走った。地図で確認していたように街を過ぎて山間に入ると人には会わなくなったが、予想外に車の往来が激しくちょっと怖いくらいの道で、現在でも重要な道なのだろうという実感を持った。小坂が廃坑となった現在でも十分活気を感じられる道で、ここが北秋田の活力源になっていたのだと一人納得した。

 そして鷹巣。100km走ってきて初めて商店街らしい通りを走る。すでに薄暗くなる中、声援が一挙に増えた。ここまで来たらもう誰も歩くことはできない。大太鼓の応援に感謝しながらゴールに飛び込む。どんなポーズをとろうか? いつも走りながら考えるのだが、いつも考えているのとは違う、とてもかっこいいとは言えないポーズをとっている。でも、そんなかっこ悪さがウルトラマラソンの本質かもしれない。
初100kmは左ふくらはぎ痛再発の不安をかかえてのものだった。それだけに完走できた喜びは大きかった。この当時流行った「自分で自分を誉めたい」という言葉は、実に素直に自分の中に入ってきた。

 最後になるが、「秋田の100km」で忘れられない人がいる。車で移動しながら、要所要所、100kmにわたって応援を続けてくれる女性である。私が参加した4回すべてでその女性が応援してくれている。「ファイトファイト頑張れ!ファイト頑張れ!」といつも同じリズムで応援してくれているその女性に、いつも大いに感謝している。一度ゴール前の直線で出会えたときには思わず手を握って感謝の気持ちを現してしまった。

 2000年を最後に「秋田の100km」には参加していない。だから今でもその女性が応援してくれているかは判らない。だけど、私にとって100kmの原点であるこの秋田で、いつまでも応援し続けてくれる気がする。どのレースを走っていても、頑張れと言ってくれている気がする。