最もディープな日本「奥熊野」

「最もディープな日本」奥熊野と奈良をつなぐ十津川街道。
画面真ん中に白い横線が見えるが、これが日本一のつり橋「谷瀬のつり橋」高さ54m、長さ297m。
風でゆらゆら揺れる中、思い切って渡ったが、結構怖かった。

 

海外マラソンに興味を持って以来、書店の海外紀行本コーナーを眺めるの機会が増えてきた。そんな中で「最もディープなアジアへ」というサブタイトルの本があり、内容というよりはそのタイトルが妙に気に入った。「最もディープなアジア」とは西チベットのことで、確かに地理的にも、交通手段的にも「ディープ」にふさわしい地域である。しかしそのタイトルを見てまず私の頭に浮かんだことは、もちろん「最もディープな日本」とはどこだろうという重要な課題であった。

ここで「ディープ」の定義をきちんとしなければならない。地理的に東京あるいは京都・大阪から遠いという定義にしてしまうと、ただの辺境な地ということになり、特定できたとしても「ああそう」で終わってしまう恐れがある。交通手段が無い、あるいはあっても非常に不便で時間がかかるという定義にしても同様である。

それではどんな定義をすべきなのか。まず話を膨らませるためにも「歴史」を持っていなくてはならない。そして東京・京都・大阪などの歴史的に中心となった都市の背後に控え、その都市にエネルギーを供給し続けていることが必要である。すなわち栗本慎一郎氏が言うところの「闇の都市」である必要がある。そんな観点で考えてみると、東北(恐山)や山陰(出雲)などが浮かんだが、それらを凌駕する空間があった。今節のターゲット「熊野」の地である。

しかし一口に「熊野」と言っても範囲が広い。本宮・新宮・那智大社のいわゆる熊野三山周辺が「熊野」の中心地であることは疑いないが、京都から熊野に至る街道沿い一帯がすでに「闇の空間」としての資格を十分持っているのではないか。

京都から奈良へ。そしてさらに南下すると神武天皇が即位した橿原神宮や、大和三山(耳成山・天香久山・畝傍山)が存在する空間となり、平地はここまで。さらに南へ向かおうとすると、西に楠木正成が立てこもった金剛山塊、東に南朝の拠点となった吉野山塊が迫り、わずかに起伏の少ない通路となっているのが吉野口である。さらに南下を続けると、五条、橋本の町があり、そこから紀ノ川沿いに西へ抜けると和歌山へ出るが、ここはさらに山へ踏み入る。橋本の町の「裏山」には真田幸村が軟禁された九度山が、さらにその奥には日本史上最大の巨人・空海が今も生き続ける高野山が存在する。

我々は、紀ノ川の支流丹生川沿いに天辻峠を越えよう。するとそこから先はいわゆる「十津川街道」。東の大峰山、西の護摩壇山という修験者の闊歩した山岳に挟まれた険しい街道であり、この街道を抜けると熊野本宮大社へ続く。すなわち、東西南北を「闇」につながる強烈な土地で囲まれたこの十津川という空間も含めた広義の熊野こそ「最もディープな日本」に相応しい。

ところで最近(2003年5月現在)「日本魔界案内」という本が光文社から発刊されたが、我が熊野の地を中心に実に詳しく案内されている。タイトルからすると何やら怪しげな内容と思われるだろうが、著者の小松和彦氏はれっきとした日本文化の研究者であり、日本の闇の部分にスポットをあてた数々の著書を上梓しており、私も以前から愛読させていただいている教授である。氏によると、熊野三山の中で京都から最も遠い那智大社は神さまとしてはオオナムチ(大国主)を、仏教としては観音菩薩の信仰の地である。そしてこの那智大社は、観音菩薩の浄土である「補陀落山(ふだらくさん)」の入り口だったとのこと。

補陀落山は南海のはるか彼方にあるとされ、修験者たちが亡くなったとき、補陀落山への往生を願って遺体を棺桶に納めて船に載せ、那智大社から海岸へ降りたところにある補陀落山寺から海へ流したそうである。これだけなら美しい習慣といえるが、どの時代にも過激な人々がいるもので、熱烈な観音信仰者の中で、生きながら釘を打ち込んで外へ出られなくした船にこもり、海にでていく信者が現れたとのこと。小松氏も言うように一種の集団であるが、これに関する是非はとりあえず置き、ここで言いたかったことは、熊野信仰は京都から見ると、どんどん奥へと向かい、一番奥の那智大社を越えて、さらに海に突き抜けてしまったということだ。そのことを考えると海とまではいかないが、那智の滝をスタートしてさらに奥地へ向かい、海へつき向ける手前の補陀落山寺をゴールとした奥熊野100kmマラソンのその「奥熊野」というネーミングの意味は結構深い意味をもって付けたのではないか、そんな思いを持っている。

「最もディープな日本」というタイトルと「奥熊野100kmマラソン」とを結びつけるために長々と解説してきたが、ゴールデンウイークに開催される奥熊野100kmマラソンに参加を決めたのと、それならついでに熊野本宮、十津川街道や高野山を回ってやろうと思ったのが先で、上記うんちくは全くの後付であることは言うまでもない。
那智の滝を背にスタートした奥熊野100kmマラソンの様子は別途報告しているのでここでは重複を避けるが、スタート時に拝もうとしていた那智の滝が夜明け前の暗さの中ではよく見えなかったことと、ゴール後いつもどおり放心状態となり、補陀落山寺をも拝むことができなかった。うんちくを調べておきながら肝心なところを外してしまったのはいつものこととはいえちょっと残念であった。

さてレースの翌日、やたらと辛そうに熊野本宮の石段を登っている私がいた。
那智勝浦の町から新宮まで、大騒ぎする高校生に混じってJRで移動。新宮駅前から大和八木駅行きのバスで1時間半ほど揺られるとそこが熊野本宮である。バスから見る熊野川は実に美しかったが、昨晩(ウルトラを走った後いつもそうなのだが)よく眠れずにいた私は、バスの中で爆睡してしまい、この美しい景色を楽しむ時間はあまりに少なかった。

ともあれ熊野本宮のバス停で下車した私は、次のバスまでの約1時間の間に本宮を見ておこうと、懸命に石段を登っていた。しかしあまり特徴がないところだな、というのが正直な感想だった。それもそのはず、再び小松氏によると本来熊野本宮はここから数km離れた岩田川と音無川が作る三角州に位置していたそうだ。だが1889年にこの地域に大洪水が発生し、上社4殿を除いてすべて流されてしまったため、残された4殿を安全な高台に移したのが今の本宮である。ということは三角州に鎮座していた当時ならこの石段を登らないでよかったのか、と考えてしまった。

神社を巡るときは、建物を見るよりは大抵入り口に書いてある説明文を読むのが好きだ。今回もそれを眺めていて不思議なことに気がついた。すなわち「御主神は家都美御子大神即ちスサノヲの尊」というくだりと、「大神は植林を御奨励になり造船の技術を教えられて外国との交通を開かれ人民の幸福を図られるととこに生命の育成発展を司られた霊神」という2箇所だ。なぜ大和政権に対する反逆者の代表であるスサノヲがここに祭られているのか、また「造船」技術はこの山の中に相応しいとは思えない。

この疑問に答えてくれるのが、やはり前述の小松氏である。曰く、熊野族は海民として造船・航海術に長けた民族で、家都美御子は熊野族がもともと崇めていた神である。外来の大和政権にとって元々日本に住んでいた民族の神はできれば無くなって欲しいのだが、かと言って原住民から反発を買うようなことはできない。無難なところとして日本古来の神をスサノヲあるいはオオクニヌシの系列に括ってしまい、この系列が大和政権の神であるアマテラス系へ日本という国を譲ったというストーリーを構築したのである。すなわち家都美御子は決してスサノヲと同一の神ではなかったのだろうが、熊野族が大和政権の「コスモロジー」に括られたときにスサノヲと同一視されるようになったのだろう。

もともと大和政権の初代天皇・神武が奈良県北部の橿原神宮に居を構えるまでには紆余曲折があった。九州から瀬戸内海を東進して大阪を突いた大和族はここで激しい抵抗に遭い、神武の兄であり大和族の(おそらく)総領だった五瀬命が戦死するという非常事態に見舞われる。そして止む無く紀伊半島を迂回し、大阪の真裏にあたる熊野に上陸。3本脚のカラス(八咫烏)に導かれて大和入りしたのである。こう考えると、熊野族は大和政権発足の重要な協力者であると言える。再び小松氏の説に戻れば、熊野族の持つ海軍力(九鬼水軍)は強力で、これを味方につけることは勝利につながる。源平の戦いでは源氏が、戦国では織田信長が成功例である。従って熊野詣は信仰のためだけではなく、実益も兼ねた「根回し」だった可能性がある。現実に後白河上皇は33回、後鳥羽上皇は29回、鳥羽上皇は23回と、当時の権力者たちの熊野詣は驚くべき回数におよんでいる。

「闇」の首都熊野についてはこのくらいにして、次に京都と熊野を結ぶ街道に注目しよう。前述のように「十津川街道」と呼ばれる地域である。最もこの地域は谷が深く交通も困難だったようで、京都から熊野へ向かう主要ルートは、紀伊半島を海沿いにぐるっと回るルート(大辺路)や、高野山または吉野から尾根づたいに進むルート(小辺路・大峰奥駈道)が中心であった。しかし京都から近いにもかかわらず交通が困難で、かつ奥熊野100kmマラソンでも実感したように非常に奥が深い山地であるこの一帯は、中央から逃れる者にとって正に奇跡的に用意された土地だった。

熊野本宮からバスで約1時間。十津川村役場近くの歴史民族館に掲げられた年表を見るとそれがよくわかる。中央から逃れてきた人々として、兄頼朝に追われた源義経、承久の乱の敗者・尊長法印、父後醍醐天皇とともに鎌倉打倒に立ち上がった護良親王、南朝の軍事力の中心となった楠木正成の孫にあたる楠木正勝。いずれも歴史に名を残す大物ばかりである。

また十津川は中央で政争が発生したときの軍事力としても期待されていた。ここからは司馬遼太郎氏の「街道をゆく」シリーズの中から、そのものずばり「十津川街道」を参考にして話を進める。司馬氏によると幕末に明治政府発足に5年先駆けて革命政府を創ろうとした乱(天誅組の乱)の主力をなしたのが十津川郷の人々であったことは有名だが、672年壬申の乱のとき天武天皇に味方し、それ以来免租されたという伝説があるくらい古くから歴史に登場している。「保元物語」からの引用として司馬氏も述べているように、「平素は世間から忘れられているが、中央でなのごとか政権を争う合戦がおこなわれる場合、たれがよぶのか、この人馬不通の大山塊から十津川兵が出てくる」という存在だったようだ。また壬申の乱、保元の乱、南北朝の乱、大阪の陣などの中央の争いに兵を出したが一度も恩賞をもらったことがなく、恩賞目当てに出兵したこともないというのが十津川の誇りになっているとのことで、「法的根拠のあいまいな自領の所有権を安堵してもらいために働く」のが十津川郷の人々だった。何やら男意気を感じてしまう土地柄だ。

私が宿泊した十津川温泉郷や冒頭の「谷瀬のつり橋」を眺めて実感したが、この土地は山が近い。見上げないと全貌がわからないほどだ。だから写真を撮ろうとしても自分が今見ている大きな感覚をすべて納めるのは不可能で、全くデジカメ向きではない土地だ。それほど「谷底」に近い土地に人が生活しているのが十津川だ。先に1889年熊野本宮が大洪水にあったと書いたが、熊野本宮の上流にあたる十津川郷も甚大な被害を受けた。司馬氏の表現を借りると「災害という通念をはるかに越えたもので、一郷の過半が自然のかけらぐるみ流されてしまったといえる」ほどで、「にわかにできた湖が大塔村、天川村をふくめて50いくつにもなったというぐあいで、このため水没・流出・倒壊した人家は数知れず、死者は168人、罹災者は2600人にのぼった」。

この大洪水により再起はもはや望みがないとさえ言われ、2600人が村をすてて北海道に移住することとなった。それが現在の新十津川町である。札幌の北東約100kmにあるこの町にはまだ行ったことはないが、「もっともディープな日本」と称していろいろと調べているうちに、是非行ってみたいという気持ちになってきた。地図を眺めていると「ピンネシリ」という山を見つけた。ピンネシリ。どこかで聞いた名前だ。そう、ランナーなら聞き覚えのあるこの山は、毎年9月に開催される「ピンネシリ登山マラソン」の舞台である。また新しい旅を見つけてしまった。

地図を見ると奈良県は結構大きい県である。にもかかわらず、旅行のガイドブックは奈良市を中心とした北部に偏った内容になっている。また熊野は「和歌山」、十津川は「奈良」に別れており、統一してこの地域を案内したものは全くなかった。今回の旅で目立ったのは、奈良・和歌山・三重の3県にまたがるこの地域を世界遺産にしようというポスターで、この地域を「県」で区切る現在のスタイルを変えようとする動きがあることは大歓迎だ。さすがに100km走ったあとは山道をあるこうという気が起こらなかったが、いつかは修験者があるいた尾根道も歩いてみたい。

京都という大都市の近くに用意された不思議な空間。
「最もディープな日本」は旅の可能性を無限に広げてくれる、愛すべき空間だった。