玄界灘の「シロウサギ」
私は、歴史と地理と伝説と妖怪とが織り成す混沌とした世界に迷い込み、しかも自らの脚でその地を踏みしめておきなから、危ないと思ったらそそくさと引き上げていくという中途半端な旅が好きなのだが、私をそんな奇妙な世界に導いてくれた書籍の一冊に、梅原猛氏の「神々の流竄」があげられる。
梅原氏は正真正銘の学者で、私のようないかがわしい存在では決して無いことを念のため記しておくが、もともと西洋哲学を学んだものの、その後仏教や神道を中心とした日本思想の探求にのめりこみ、独自の「梅原日本学」を作り上げた人物である。
そしてこの本は、文字通り神々を本来鎮座していた場所から別の場所へ島流しのように「流してしまった」ことを証明しようとして書かれたものだが、いったい誰が何の目的で神々を「流す」という大胆な行為を行ったのか?
まず何の目的でという疑問から先に述べるが、もともと神話で述べられている「神」は、その神を信仰していた部族を示すことが多い。すなわち「神」の物語は「部族」の物語である。では「部族」が何の目的で物語を残すかというと、それはその「部族」の歴史を記憶に留めるためであり、もっとはっきり言うと、その部族の歴史を正当化するための言い分を伝えるものである。そう考えていくと、「神」を「流す」ということは、ある「部族」が正当化した歴史を否定し、さらに改竄された歴史を後世に知らしめることになる。生きている人間と議論を交わすならまだしも、もはや反論できる人間がいなくなってしまった時期において彼らを否定するという方法は、その人間の存在や歴史を否定する方法として、およそ考えうるなかで、もっともその人間の存在を否定するものといえるだろう。
ここで「何の目的で」という疑問が解けたかわりに、もうひとつの疑問が沸いてくる。保留されていた「誰が」と対になる疑問にもなるが、その神が象徴する部族は「誰だったのか」という疑問である。この二つの疑問について、もちろん私には整然と議論を進める力はないし、できたとしても「神々の流竄」一冊分かかってしまうので、梅原氏の説に則り答えだけを述べてしまおう。
否定されたのは「日本古来の神々の物語」で、その目的は外来の神である天皇家の神々が日本を治めることを正当化するためには、日本古来の神々の物語を多少変更する必要があったためであり、この改竄を行ったのは藤原不比等である。
玄海を走るにあたり、何故こんなところから考え始めなければならなかったのかと言えば、タイトルに記した「シロウサギ」の物語が、実はこの玄海に深く関連しているからである。梅原氏によれば、改竄された神々の物語のひとつに「イナバのシロウサギ」がある。ここでイナバとシロウサギをカタカナ表記したのには訳がある。通常この物語は、白いウサギが、島根県の北方にある隠岐の島から、ワニの背中づたいに、因幡(鳥取県)の白兎海岸に渡る物語と理解されている。もちろん、海を渡る過程でウサギがワニを騙していたため、それに気がついたワニがウサギを丸裸にしてしまうという落ちがついている。
それではこの物語の原型は何なのか?
「隠岐」ではなく、「沖」が正しい。そして「沖ノ島」とは玄界灘に浮く「沖ノ島」だというのが梅原の説である。この沖ノ島とは、対馬と九州宗像地方とのちょうど中間に位置する島で、宗像-大島-沖ノ島-対馬-朝鮮半島と結ぶ航路の重要な中継点だった。危険を伴う航路にはよく見られるように、この沖ノ島も祭祀の地であった。祭られている神は宗像三神。正確には、九州宗像にある辺津宮には市杵島姫(イチキシマヒメ)、すぐ沖合いの大島にある中津宮には湍津姫(タギツヒメ)そして沖ノ島には田心姫(タゴリヒメ)が鎮座している。
そして梅原氏は、沖ノ島の祭祀に関連した人々(ウサギ)が、663年の白村江の戦いで日本が敗れたために不要となり、否、逆に朝鮮半島の部族に攻め込まれる最前線に位置する立場になってしまったために、一刻も早く本土に移住する必要がでてきた。そして一族の移動に際して力を貸したのが九州志賀島を本拠とする阿曇族(ワニ)だった。「イナバのシロウサギ」の物語はその移動の記憶であり、その際不幸にして生じた両部族間のトラブルの記憶だったのだ。
以上の梅原説が発表されたのが1970年。それから30年たった今、この説がどこまで承認されているか私には全くわからないが、ひとつだけ言えるのは、この玄海の地がもともと歴史的な要地であり、物語の舞台となりうる地であったということだろう。
という内容の「神々の流竄」を読んだのは10年以上も前のことだったろうか?
ともかくこの本を読んでから、「玄海地方」に対する興味が妙に深まり、いつかは訪ねてみたい土地の筆頭に上がるようになったのだが、本格的な旅には至らず、何時の間にか10数年の時を重ねてしまった。そしてその間、ウルトラマラソンというこれまた不思議な世界にのめり込んでしまった私は、どこか面白い土地を走るウルトラはないだろうかとインターネットをいじりながら日々を過ごしていたのだが、ある日突然に「玄海」の文字を目にすることになった。もちろん「玄海100kmウルトラマラソン」のことである。
47都道府県マラソン制覇を目指す中で、福岡県のフルマラソンは「福岡国際マラソン」を除くと北九州市近くで行われる「鱒渕マラソン」だけである。もちろんこのレースを走るつもりでいたのだが、何となくピンとこないまま、福岡県はずるずると先延ばしになっていた。そんな状況で出会った玄海の100kmは全国マラソン制覇にとっても、ウルトラ志向の満たす意味でも、そして長年の懸案事項であった「玄海」を散策する意味でも正に見事すぎるくらいフィットしていた。
2003年9月21日。宮地嶽神社をスタートした私はしかし、宗像族が渡った「玄海の荒波」にたどりつく前に、この地方は実に山が多いことを痛感することになった。前半は福岡市と飯塚市を隔てる三郡山地でもがくコース設定になっているのだ。
飯塚市といってもなじみの薄い人もいるだろうが、日本全国のギャンブル場を巡る通称「旅打ち」も趣味のひとつとしている私にとっては、「飯塚オート」のイメージが強く、しかもこのマラソン以前に旅打ちのために訪れたことのある土地である。そしてその報告でも書いたように、飯塚はいわゆる筑豊の炭鉱街だった。
筑豊は、「神々の流竄」よりさらに昔に読んだ五木寛之の名作「青春の門」の舞台となった土地である。小説の内容はほとんど忘れてしまったが、主人公が生まれ故郷筑豊を去るとき、ボタ山を眺めていたシーンが妙に残っている。そして「ボタ山を見てみたい!」という気持ちにかられて飯塚オートでの旅打ちのついでに、飯塚駅の近くにあるボタ山を眺めてきたのだが、樹木が生えていない裸の山という勝手な想像に反して、ボタ山と言われなければわからないくらい普通に木が生えた山だった。もちろんそれが炭鉱で栄えた時代から大きく時間が流れているという証拠なのだろうが。
その飯塚の街の真ん中には遠賀川が流れている。地図を眺めるとわかるように、この川は芦屋まで流れており、、また、運河を通じて若松まで達している。1898年には「五平太船」と呼ばれる船底が平らな船9000艘以上が、この川に浮かび、石炭を運んでいたそうだ。(ちなみに、芦屋・若松ともに競艇場を持つ街である。ギャンブル場のある街は旧来に基幹産業と実に密接に繋がっているのだ!)その後、石炭の運搬は船から鉄道に取って代り、昭和20~40年代は「運炭線」が網の目のように走っていた。当時、この地方の貨物取り扱い量は全国の1割を占めるほどで、筑豊本線の飯塚付近は、あかずの踏み切りだったとのこと。
飯塚はまた陸上交通の要所である。長崎から江戸に続く長崎街道が街の中心を通っている。「筑豊一番」というホームページからその様子を抜粋すると、
「長崎街道は、諸大名の通る参勤交代の道として、鎖国令以後は唯一世界に開かれた長崎 と江戸を結ぶ道として、多くの人と文物が往来した文化の道である。数百人から数千人に も及ぶといわれる大名行列が通るときは、道筋の住民も助郷の制度で荷物輸送のために動 員されたりして大変だが、シーボルトなどの外国人や将軍に献上される象・らくだ・孔雀 などの珍しいものが通って人々を楽しませ、地理学者の伊能忠敬が、西洋医学や蘭学を志 す者が、明治維新の立て役者たちが通った近代日本の夜明けの道だといえる。」
とのこと。象が歩く飯塚の街をぜひ見てみたいものだと思うのは私だけではないだろう。
飯塚・筑豊・玄海。博多を含めた九州北部一帯は実に奇跡的な地域だ。
朝鮮半島に近いという地理的な条件から、古来日本の最先端地域であり、また元寇の影響を直接受けたのもこの地であり、その元寇に端を発して生じた鎌倉幕府の崩壊にケリをつけたのは、一度敗れながらも、九州でエネルギーを得て再上洛を果たした足利尊氏だった。さらに、日本史上最大の文化摩擦といえるキリスト教対日本文化の衝突が生じたのもこの土地であった。
そして、この土地は近代日本推進のエネルギーである石炭の供給源となった。昭和40年代後半は、石炭から石油へのエネルギー革命が起こり、炭鉱の閉鎖が相次いだのはご承知のとおりだが、こうして歴史を通じて見ると、「北九州」は日本にエネルギーを与え続けてくれた重要な存在で、狭くて広い日本の中でその重要度は第一級といえる街であることには変わりない。
とはいいながらも、筑豊の山を70kmほど走り続けて、ようやく目的の玄界灘に達したときは、さすがの北九州エネルギー補給基地も私への補給が追いつかなかったとみえて、見る見るペースが落ちていった。ふらふらと走る私に向かい、玄界灘からの強烈な風が吹き付ける。海を見ると砕けた波で真っ白である。本来波というものは寄せては返すものだと思っていたが、返る間もなく次の波が寄せてくる。雲峰さんではないが、「峰々を越えし我が身にひと試練 寄せっぱなしの玄海の波」というところか。
玄海灘の荒波を「北九州」の地がしっかと受け止める。有史以来繰り返すその作業により蓄積されたエネルギーが、「北九州」に、そしてそこに暮らす人々に大いなるエネルギーを伝える。完走はしたものの、ぐったりと倒れこんでしまった私とは対照的に、地元福岡のランナーを中心に大いに後夜祭が盛り上がっているようだ。そういえばレース前夜もあたりまえのようにビールでエネルギー補給をしているランナーが多かったのもこのレースの特徴だ。そうか。福岡のランナーはエネルギーのポテンシャルが違うのだ。
そしてこの地は、「永住して見たい街」の第一候補に踊り出たのであった。