沖縄力!!
沖縄で走る前に何度か仕事で脚を運んでいるのだが、もう10年以上前になるだろうか、初めての沖縄、しかも石垣島に行ったときに、「ここは日本ではない!」と直感的に思ってしまった。それは、石垣空港から仕事場へ向かうマイクロバスの中から「お墓」を見たときだった。それまで私の知っているお墓は、村外れの、すぐそこから山になるという直前の斜面にひっそりと存在するものだったが、石垣島のお墓は、何とも陽当たりのよい場所に、しかも大きなスペースをとって、堂々と存在していた。死者に対する考え方は、即文化に繋がる。これだけ違う印象を与えるお墓を持つ沖縄は、それだけで「日本」とは違う文化を持った社会であることは明白である。
そういえば、2001年12月にNAHAマラソンに参加した私が、そのまま1週間の休みを取って、沖縄の風に吹かれてごろごろテレビを観ていたときのことである。折りしも沖縄を舞台にした人気ドラマ「ちゅらさん」の総集編を放映していたのだが、大きな明るいお墓を前にオバァ曰く、沖縄では死んだら一番いい場所に埋めてもらえる。死ぬことは何にも怖くは無い。
2004年の正月早々。寒い寒い「本土」から、温かいというより暑い宮古島で今年初の100kmを走っていた。東平安名崎から七又海岸へ向かう陽当たりのよい海岸に向かって、多くのお墓がひなたぼっこをしているようにずらっと並んでいたのが印象的である。
印象的といえば、25km地点の池間大橋から見た海の色ほど驚いたものは無い。
本当にコバルトブルーなのだ。どんなに人間が頑張っても、こんな色は創れないだろうと思うほど、涙が出そうなコバルトブルーである。この色をかもし出している沖縄のサンゴ礁は世界的にも有数ので、このような大規模なサンゴ礁は東アジア海域においてはここにしかないと言われている。
沖縄のサンゴでもっとも有名なスポットは、八重干瀬(やえびし)だろう。宮古島の北方に存在する八重干瀬は、普段は海中に沈んでいるが、大潮の干潮時にだけその姿を表す「幻の大陸」である。ここにはシャコガイやイモガイなどの南国の珍しい貝をはじめ、様々な生物が生息する自然の宝庫である。この宝庫で採れる宝貝は、古代は通貨として使用されていたといわれており、 柳田國男の「海上の道」によると、この宝貝の魅力にひかれ、中国から一群の人々が宮古島に来たそうだ。その人々が稲を携えて日本列島に渡り、日本人の祖先となった。すなわち、日本人のルーツは宮古島にあるというお話も伝えられている。本当に日本人のルーツが宮古島かどうかわからないが、この逸話は次のことを示唆している。すなわち、沖縄(琉球)は日本とのつながりだけでなく、中国をはじめとした日本以外の地域と幅広い交流を行っていたということ。
日本の時代史18巻「琉球・沖縄史の世界」によると、3~12世紀において、琉球のさんご礁海域で豊富に獲得されるゴウホラ・イモガイ・ヤコウガイなどの貝類を元手として、九州などから求めにくる者との間で活発に交易活動が行われてきたとのこと。そして、この交易は日本だけにとどまらなかった。コウヤガイは唐の時代に発展した螺鈿(らでん)という貝模様の漆器に使用されており、活発に取引されていたとも推察されている。その証拠として、この支払いとしてもたらされた開元通宝が琉球列島から多量に出土している。時代は下って、12~15世紀のグスクの時代になると、中国(宋)を中心とする東アジア交易圏に組み込まれていた。そして、明の時代には朝貢貿易を行ない、琉球からは馬と硫黄を輸出していた。この活発な交易の結果、15世紀ごろの那覇は、中国人・朝鮮人・日本人が居留する国際都市になっていたという。
交易以外でも、沖縄は日本の範疇に留まっていない。佐々木高明氏は「南からの日本文化-新・海上の道-(NHKブックス)」で琉球の農業について詳しく考察している。それによると、 沖縄の伝統的農耕では水田の比重はそれほど大きくなく、むしろヒエ・ヤマノイモを中心とした畑作が中心である。また稲作は本土では夏作であるのに対し、沖縄では冬作であること、また沖縄は牛による踏作を行っていたり、本土との稲の種類が違う(本土の温帯ジャポニカに対し、沖縄は熱帯ジャポニカ)こと、さらにこの熱帯ジャポニカは東南アジアに分布していることを元に、稲作は日本列島から沖縄に伝わったのではなく、沖縄には東南アジアから別の稲作が伝わったと結論づけている。
地図を眺めると、沖縄は、特に宮古島は日本列島からより、台湾や中国・東南アジアに近い。先の交易の話にしても、農耕の話にしても、日本の範疇に留まっていない沖縄の姿を証明しており、学問的には確定していないのかもしれないが、感覚的には素直に理解できることだ。少し前に首都移転が話題になったことがあるが、グローバル社会に対応するには沖縄に首都を移すべきであると考えたことがあった。特にアジアに視点を移し、21世紀の新たな日本の姿を追求するなら、グローバル遺伝子を継承している貴重な存在である沖縄を前向きに捕らえる必要があると今でも思っている。
などと考えながら走っていると、そろそろ中間地点に到達しそうだ。しかし今日は不思議とお腹がすかない。いつもは脚が疲れるとか言う前に、エネルギー切れで戦力を喪失してしまうのが100kmマラソンの常であるのに、今日は何か違う。いったい何が違うのだろう。
そうだ。沖縄のオバァだ。
スタート地点に一番近い民宿に泊まった私は、夕飯はもとより、今朝3時半にいただいた朝食も「ゴーヤチャンプル定食」。満腹満腹の歓迎を受けたのだった。部屋を見渡すと、トライアスロンの新聞記事が壁中に貼られている。聞けばこの民宿はトライアスリートの合宿に常用されており、しかもこの宿の常連が、春に開催される宮古島トライアスロンの上位入賞の常連でもあるとのこと。朝3時半から、からからと笑いながら送り出してくれる宿のオバァは、宮古島の有名人。オリジナル料理をコンテストの出展し、自らも上位入賞するツワモノであった。
中間点を過ぎると、急に景色が単調になった。海が見えなくなったためだろう。単調な走りを続けていると、ふとつまらないことを思い出してしまう。そういえば、心配していた「平面ガエル」がいないではないか。 「平面ガエル」とは、もちろん言葉の意味そのままである。2001年NAHAマラソンを走った後に南大東島を旅したのだが、そのとき路面に張り付く多数の「平面ガエル」を目撃したのである。
突然だが、沖縄の名物にハブがあげられる。
しかし、どこかのクイズ番組で取り上げられたことがあるが、沖縄の島々にはハブのいる島といない島に分けられる。有史以来海面は上がり下がりしており、高い山のない島は完全に水没してしまい、その際ハブが死滅してしまうのである。すなわち、高い山を持たない南大東島や宮古島にはハブはいない。ハブがいないとどうなるか?実は天敵であるハブがいない南大東島ではカエルが多量に発生する。多量に発生したカエルはふらふらと車道に出て行き、結果「平面ガエル」になるのであった。
南大東島で目撃した「平面ガエル」は、絶対宮古島にも存在するであろうと、楽しみ(?)にしていた私だが、100km走っても一匹も目撃しなかったのである。理由はわからないが、結果として、まるまる1日「平面ガエル」を眺め続けなくてよかった分、快適なランニングができたことになる。
高い山が無い島。
宮古島と南大東島の共通点であるこの特徴が引き起こすもうひとつの問題は水不足であるが、この点についても両島で事情が異なっている。南大東島での水不足は深刻である。実はこの島に人が住むようになったのは1900年からで、まだ100年しか歴史がない。直接開拓の扉を開いたのは、八丈島の玉置半右衛門だったが、彼以前にもチャレンジした人は多かった。地下水も少なく飲料水を雨水に頼るしかないこの島は、開拓者にとって過酷極まりないものだった。
しかし、宮古島の事情は違っていた。
宮古島の土壌は水をよく通す隆起サンゴ礁の琉球石灰岩からなるが、この下に水を通さない島尻泥岩(粘土層)が存在するため、両層の間に地下水が貯まる構造になっている。宮古島には年間2250mmの雨が降る多雨地域だが、その50%が地下水となる。その地下水はいずれ海に流れ出してしまい有効な利用が出来なくなるが、現在宮古島では、この地下水が流れ出さないようにせき止めるために、地下にダムを作る事業を行っている。飲料水のためダムを作るといえば、山の川をせき止める風景が目に浮かぶが、地下のダムを設けるとは、一味違う沖縄の面目躍如というところか。
実は、この地下水が自然に染み出してくる場所が宮古島には存在する。
「ガー」と呼ばれる井戸がそれである。レース翌日、平良市内に存在する「盛加ガー」を見学してきたが、急な石段を地下まで降りるもの。100km走った翌日の脚には下りも登りも結構こたえた。毎日毎日この石段を上り下りして、生活に必要な水を汲んでいる人々の厳しさを、ほんの1分程度体験することができた。地下水は想いの外冷たくは無かった。
宮古島には御嶽(うたき)と呼ばれる場所がある。御嶽は、神々のいます神聖な場所で、普段は人々が立ち入ることは出来ないが、祭りの日には村人達と神々が交流する場となっている。盛加ガーのすぐ隣にも御嶽があった。ガーと御嶽が常にセットになっているわけではないだろうが、ガー自体がある意味では神聖な場所だったことは間違いない。宮古島の地形が生んだ地下水。その地下水が湧き出る場所を「印しつきの場所」として生きている人間たち。地質学的な現象と、人間としての生き方とを見事に融合させた宮古島の力がここに存在していた。
夜明けの遅い宮古島。
25kmの池間大橋でコバルトブルーの海を見たのは、朝日の中。そして夕刻、ゴール間近の来間大橋でコバルトブルーの海に再会した。1月に設定されている宮古島のウルトラは、多くのランナーにとって、その年初のロングレースになる。「本土」にいたら、寒さに縮む時期にも関わらず、宮古では、春秋のウルトラの季節と変わらない温かい楽しみを与えてくれる。来間大橋から宮古島へ向かって駆け降りていく。海いっぱい、空いっぱい。自分というひとりのランナーが、沖縄の力で前へ前へと押し出されていく。
ウルトラという「おてんとうさまがくれた最高の贅沢」を今年も満喫できるのだ。
ウルトラランナーに勇気をくれる「沖縄力」。